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読売ジャイアンツの新監督に決まった阿部慎之助(あべ・しんのすけ)さん。
その阿部慎之助さんは、父親の勧めで小学生の頃から野球を始めています。
そんな阿部慎之助さんの実家はどんな風なのでしょうか?
そこで今回の記事では、
の3つのポイントに沿って、阿部慎之助の実家についてご紹介したいと思います。
阿部慎之助さんの実家は千葉県浦安市で、豊受神社のそばで生まれ育ち、家族は両親と1歳上の姉、3歳下の妹の5人家族です。
阿部慎之助さんはまだおしめを付けている1歳半から、野球好きの父親に連れられて草野球を観に行ってたそうです。
幼少期の阿部慎之助さんは、流行のゲーム類などには目もくれず、いつもプラスチック製のバットと柔らかいボールが遊び道具だったとか。
外で遊ぶの大好きだった阿部慎之助さんは、服の汚れが酷ければ酷いほど両親は喜んでくれたと言います。
そんな阿部慎之助さんは、父親の勧めで小学1年生の時に「浦小クラブ」に所属し、本格的に野球を始めています。
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しかし、幼い頃はポテンヒットが多く、チーム内で「カンチャンのすけ」とからかわれていたとか。
地元の浦安中学校へ入学した阿部慎之助さんは、学校の野球部に入らず、硬式野球チームの「浦安シニア」に入団しています。
中学卒業後は安田学園高校へ進学しますが、打球が飛び過ぎて危険なため防球ネットが増設されており、高校時代には通算38本塁打を放っています。
大学は父親の母校でもある中央大学へ進み、2000年9月にはシドニーオリンピックの代表に選ばれています。
そして、2000年11月のドラフト会議で、ドラフト1位(逆指名)で読売ジャイアンツに入団しています。
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阿部慎之助さんの父親の名前は阿部東司(あべ・とうじ)さん(68歳)で、浦安市で東建設株式会社を経営しています。
父・東司さんも元野球選手で、習志野市立習志野高校時代には4番を打ち、1972年の全国高校野球選手権に出場経験があります。
高校卒業後は中央大学へ進み、捕手としてチームの中心となって活躍し、プロ入りも嘱望されましたが、ケガのため、実業団野球チームの電電東京でプレーしていました。
阿部慎之助さんの子供の頃は、毎日遅くまで庭にライトをつけて、バッティング練習をしていたそうです。
阿部慎之助さんが中学時代に入団した「浦安シニア」では、当時、父・東司さんがコーチに就任し、野球のルールから自身が培った捕手の心構えを教えてきました。
阿部慎之助さんは父・東司さんについて「俺のことを一番長く、身近に見てきたコーチ」と話しています。
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阿部慎之助さんの母親の名前は阿部由紀子(あべ・ゆきこ)さんです。
残念ながら、母・由紀子さんの顔画像などは公開されていませんでした。
母・由紀子さんは池端慎之介(ピーター)さんの大ファンだったことから、「慎之助」と名付けられたそうです。
阿部慎之助さんが中学で「浦安シニア」入りを選んだのは、母・由紀子さんの「狭い世界ではなく、より広い世界を知ってほしい」という考えがあったからだと言います。
何よりも母・由紀子さんには「生きることは食べること。食べることは生きること」という信念があり、幼い頃は細かった阿部慎之助さんを食でサポートし、今の頑丈な体を作ることができたそうです。
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阿部慎之助さんの父・東司さんと、“ミスタータイガース”と称される掛布雅之さんは、習志野高校時代の同期です。
父・東司さんと掛布雅之さんはクリーナップを組み、掛布雅之さんが3番、東司さんが4番を打ち、1972年の夏の甲子園へ出場しています。
その影響から、阿部慎之助さんは阪神タイガースのファンで、掛布雅之さんに憧れて左打ちになったそうです。
父・東司さんは、阿部慎之助さんが幼い頃からたびたび「掛布はこうだった~」と話しかけ、「掛布は練習が終わってもティーを打って、家に帰ってまたスイングしていたらしいぞ。だからあんな風になれたんだ」と教えたと言います。
阿部慎之助さんは、掛布雅之さんからプレゼントしてもらった、阪神二軍監督時代のユニホームを宝物として保管しているそうです。
★阿部慎之助さんのお嫁さんに関する記事は、こちらをご覧ください。
いかがでしたでしょうか?
今後も益々話題となりそうな阿部慎之助さんを、引き続き注目していきたいと思います。