第5回WBCで14年ぶりの世界一に導いた、侍ジャパンの監督・栗山英樹(くりやま・ひでき)さん。
栗山英樹さんは、学生時代に目指していたのは教師だとか。
そんな栗山英樹さんはどんな現役時代を送っていたのでしょうか?
そこで今回の記事では、
・栗山英樹の東京学芸大学時代
・栗山英樹の引退理由
の3つのポイントに沿って、栗山英樹さんについてご紹介したいと思います。
栗山英樹の現役時代が異色!

栗山英樹さんの現役時代は、日本ハムの監督としての時間より短かく、わずか7年で現役を引退しています。
小学時代に兄の影響を受けて野球を始めた栗山英樹さんですが、中学ではバレーボールのセッターとして活躍していました。
しかし、栗山英樹さんは中学3年生の時に、地元の小平市のポニーリーグチームに所属し、投手として日米大会に出場しており、大会MVPを獲得しています。
栗山英樹さんは、甲子園常連校の東海大相模のセレクションに合格していますが、地元・小平市にある創価高校野球部の熱心なスカウトに動かされ、自宅から通える創価高校へ進学。
栗山英樹さんは1年生からベンチ入りし、3年生の時には主将兼エースとしてチームを牽引し、春の東京都大会でベスト4進出を果たしますが、甲子園出場の夢は叶いませんでした。
その後は、教員を目指して、国立の東京学芸大学教育学部へ進学しています。
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栗山英樹は東京学芸大で教師に?

東京学芸大学へ進学した栗山英樹さんは、硬式野球部に入部し、投手や内野手として活躍し、投手としては、東京新大学リーグで2度の優勝、大学選手権にも出場しています。
しかし、栗山英樹さんは、右肘を故障してからは投手としての限界を感じ、野手に転向しています。
東京新大学リーグでの通算成績は、投手として25勝8敗、打者としては打率.389(リーグ史上3位)という成績を残しています。
学業では在学中に、小・中・高の教員免許を取得し、教師という目標に着実に近づいていました。
栗山英樹さんは大学卒業後、教員を目指していましたが野球への夢が再熱し、4年生の時には社会人野球の朝日生命に内定が決まっていました。
ところが、栗山英樹さんは練習試合で、野球評論家として活躍していた佐々木信也氏の目に留まり、プロチームの入団テストを受け、ヤクルトにだけ合格し、ドラフト外入団が決まっています。
そして、栗山英樹さんは1984年に一軍デビューし、教員免許を持つプロ野球選手が誕生しています。
栗山英樹の引退理由はメニエール病⁉

1984年にプロデビューした栗山英樹さんは、1990年に現役を引退しています。
引退の理由は、2年目に発症した、平衡感覚が狂う三半規管の難病『メニエール病』だそうです。
栗山英樹さんは、試合中にめまいや立ち眩みを覚えるようになり、突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えることもあったとか。
しかし、その頃、栗山英樹さんは一軍と二軍のボーダーラインにいたため、めまいが起こっても首脳陣には隠して、頭をクラクラさせながら試合に出ていたそうです。
オフには、意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的に症状を抑え込んでいましたが、シーズン終盤で再び症状が現れ、オフには治療に専念するために長期入院を余儀なくされています。

いつ症状が再発するか分からない不安の中で、入院生活を送っていた栗山英樹さん。
しかし、同じ入院先の子供たちが、自分よりもはるかに重い病を持っていることを知り、自分の甘さを恥じて「また発症しても仕方ない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」と、前向きになれたそうです。
栗山英樹さんがレギュラーに定着したのは1988年6月で、左足の肉離れで出遅れたものの、1番・中堅手に定着しヒットを量産し、打率.331の記録しています。
翌89年も好調は続き、一度も離脱することなくキャンプを打ち上げ、4月だけで27安打を放って打率.351を記録し、最終的には自己最多の125試合に出場し37犠打。
栗山英樹さんは初めて規定打席に到達し、守備範囲の広さを評価されゴールデンクラブ賞を受賞しています。
その翌年には69試合に出場しますが、メニエール病の再発や、加えて古傷の右肘の故障も再発したため、オフに現役を引退しています。
引退後は、スポーツキャスターや野球評論家として活動し、そのかたわらで、少年野球に普及育成に努めています。
★栗山英樹さんの独身に関する記事は、こちらをご覧ください。
いかがでしたでしょうか?
今後も益々話題となりそうな栗山英樹さんを、引き続き注目していきたいと思います。