森保一監督の若い頃は無名!?ボランチの先駆者?ドーハの悲劇のメンバー!

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サッカー日本代表の監督を務める、愛称“ポイチ”として親しまれる森保一(もりやす・はじめ)監督

森保一監督は、チーム発足からW杯まで指揮を執る、初めての日本人監督です。

そんな森保一監督の若い頃は無名選手だったとか。

そこで今回の記事では、

・森保一監督の若い頃
・森保一監督のボランチ
・森保一監督のドーハの悲劇

の3つのポイントに沿って、森保一監督の若い頃について、ご紹介したいと思います。

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森保一監督の若い頃は無名!?

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森保一監督は若い頃、インターハイや選手権などの、全国大会に出場経験のない無名選手でした。

森保一監督は、小学5年生からサッカーを始め、小学6年のサッカークラブチーム「土井首サッカースポーツ少年団」時代に、第4回全日本少年サッカー選手権大会にGKとして出場経験があります。

中学卒業後の進路に、サッカーの強豪校の長崎県立国見高等学校に進学を希望しますが、不真面目な受験姿勢を見た父親が反対し、長崎日大高等学校へ進学しました。

森保一監督は、長崎日大高等学校時代に攻撃的なMFとして、山梨国体の選抜にこそ選ばれていますが、全国大会には出場できませんでした。

高校卒業後は、高校の監督とマツダ(現・サンフレッチェ広島)の今西和男総監督が知り合いだったため、1987年に同クラブに入団しますが、入団当初はクラブの中で最下位の評価だったとか。

また、当時、マツダ本社は高卒採用枠が5名までだったため、森保一監督は本社に入社できず、子会社のマツダ運輸(現・マツダロジスティクス)に勤務していました。

森保一監督は、当初、サテライトチームのマツダSC東洋でプレーしていましたが、マツダの監督に就任したハンス・オフト氏に見いだされたそうです。

3年目の1989年にJSL2部でデビューし、1991年にマツダとプロ契約を結び、同年JSL1部昇格に貢献しています。

さらに、1992年4月にハンス・オフト氏が日本代表の監督に就任すると、森保一監督は日本代表に初招集されました。

当時の代表メンバーの何名かは、森保一監督の存在すら知らず、「モリヤス」と読める人は少なかったとか。

1992年5月のオフトジャパン初戦のアルゼンチン戦で、先発メンバーに抜擢され初出場を果たしました。

以降、レギュラーとして活躍した森保一監督は、ラモス瑠偉選手をカバーすることに重点を置いてきましたが、山口素弘選手が同じポジションに定着したため、1996年2月を最後に代表から遠ざかっています。

一方、クラブでは、1997年にサンフレッチェ広島の経営悪化がピークになり、森保一監督は京都パープルサンガへレンタル移籍し、1999年に広島に復帰しています。

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出典元:Twitter

しかし、2002年に広島からスタッフ転進のオファーを受けますが、現役にこだわりベガルタ仙台に移籍し、主力として活躍しています。

2003年のJリーグシーズン末に仙台はJ2に降格となり、森保一監督も戦力外通告を受け、2004年1月に正式に現役引退を表明しました。

名前:森保一(もりやす・はじめ)
出身地:長崎県長崎市
生年月日:1968年8月23日(54歳)
身長/体重:174㎝・68kg
出身校:長崎日大高等学校
監督歴:サンフレッチェ広島(2012-2017年)・日本代表U-23(2017-2021年)・日本代表(2018~現在)
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森保一監督はボランチの先駆者?

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出典元:サンスポ

森保一監督は、日本に「ボランチ」というサッカー用語が定着するきっかけとなった選手です。

ボランチとは、ポルトガル語で「舵」あるいは、「ハンドル」という意味で、チームの運転を担う舵取りの役目をするものです。

森保一監督は現役時代、守備的ミッドフィルダーとして中盤の底で守備を最優先し、相手のボールを奪い攻撃の芽を摘み能力、また、攻撃をディレイさせる能力に長けていました。

森保一監督自身も、「自分自身では守備的MF、ディフェンシブハーフと思っていました。特に代表では守備が7で攻撃は3、あるいは8-2ぐらいで考えていた」と話しています。

1992年5月のキリンカップのアルゼンチン戦で、先発メンバーに選ばれ代表初出場した森保一監督は、敵のバシーレ監督とカニーヒア選手から、「日本にも良きボランチがいるではないか」と称賛されました。

このことがきっかけで、「森保」と「ボランチ」の名前が脚光を浴び、現在の隆盛に至っています。

現役時代の森保一監督は、日本にモダンサッカーを導入したハンス・オフト氏の「申し子」として、日本代表の中盤を支えてきました。

当時、強化委員長だった川淵三郎氏が、代表監督にハンス・オフト氏を指名。

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出典元:FOTBALLZONE

オフト監督は、「コンパクト」「アイコンタクト」「スリーライン」といったキーワードを駆使して、日本サッカーにモダニズムの思想を注入しました。

特に、FW、中盤、DFからなる3つのラインを約35m以内に収納し、ほぼ等間隔で維持することに注意を払っており、その日本の生命線と言われた“スリーライン”の調整役に、オフト監督は森保一監督を指名しました。

オフト監督は、チームのバランスをとる重要な位置に入った森保一監督に「前を向く」こと、「ターン」と「リターン」の指示を徹底したとか。

オフト監督は、確実性、忠実性を重視し、テクニックはないが献身的でシンプルな技術をもつ森保一監督を大抜擢したそうです。

当時の日本代表の同僚で先輩格だった都並敏史さんによると、「一度、ある選手が“リターン”と言うべきところを間違って“ターン”と間違ってしまったところ、振り向いた森保は真正面から相手とぶつかった。それくらい彼は自分の仕事に精一杯だった。しかし、僕たちは誰も森保を笑えなかった。森保よりすこしは上手いとはいえ、当時、日本代表の中で世界へ出て行ってもラクに前を向けるのは、ラモスくらいしかいなかった。」と話しています。

こうして、森保一監督の危機管理や、攻守の均衡に心身を尽くす中盤の地味な動きに、世界の脚光が当たることになりました。

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森保一監督はドーハの悲劇のメンバー!

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出典元:NHK

森保一監督は、1993年の『ドーハの悲劇』のメンバーの一人でした。

『ドーハの悲劇』とは、1993年10月28日にカタールの首都・ドーハで行われたW杯アメリカ大会アジア予選の、日本代表対イラク代表戦の総称です。

その時の日本代表のメンバーは、次の通りです。

GK:松永成立
DF:堀池巧・柱谷哲二・井原正巳・勝矢寿延
MF:森保一・ラモス瑠偉・吉田光範
FW:長谷川健太・中山雅史・三浦知良
監督:ハンス・オフト

アジア地区最終予選の最終節で行われたこの試合は、第4戦終了時点で日本はグループ1位で、初の本戦出場に王手をかけていました。

しかし、最終5節で、試合終了間際まで2-1でリードしながら、ロスタイムにイラク代表に同点ゴールを入れられ、一転して予選敗退となる結末となったことから、『ドーハの悲劇』と呼ばれるようになりました。

2022年ワールドカップ・カタール大会は、森保一監督にとって因縁の地となります。

森保一監督は当時について、「夢を手に入れれるところまで行ったのに、つかみきれなかった。泣いている自分しか、下を向いている自分しか覚えていない」と話しています。

森保一監督は、その時、「クロスボールを上げた選手にもっとプレッシャーをかけるべきだったのではないか」と、消極的だった自分を責め、周囲が心配するほど思い詰めていたとか。

しかし、今の森保一監督の心にはあの日の教訓が、深く刻まれているといいます。

ドーハでの経験は『最後に守りに入ったら逆にやられてしまう』ということ。守るにしてもボールを奪いに行く。その先に攻撃があるということを常に考えながら。

引用元:NHK

森保一監督が指揮官として挑むワールドカップ・カタール大会は、日本は強豪のスペイン・ドイツと同じグループになった1次リーグを突破し、日本史上最高のベスト8を目標に掲げています。

★森保一監督の嫁や子供に関する記事は、こちらをご覧ください。

いかがでしたでしょうか?

今後も益々話題となりそうな森保一監督を、引き続き注目していきたいと思います。

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