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1950年代から1960年代にかけて活躍した女優の嵯峨三智子(さが・みちこ)さん。
嵯峨三智子さんは、その美貌と演技力で多くのファンを魅了し、波乱万丈な人生と強い個性で多くの人々に記憶されています。
そんな嵯峨三智子さんの結婚相手や子供はいるのか気になりますよね。
そこで今回の記事では、
の3つのポイントに沿って、嵯峨三智子さんについてご紹介したいと思います。
嵯峨三智子さんには結婚歴があり、1953年に東映社員の友田一郎さんと17歳で結婚しましたが、2年後の1955年に離婚しました。
また、彼女は、1962年に俳優の岡田真澄さんと婚約しましたが、結婚に至らず、2年後に嵯峨三智子さんから婚約を解消しています。
元夫の友田一郎さんとの離婚理由は、嵯峨三智子さんの多忙な芸能活動と、それに伴う生活のすれ違いが主な原因とされ、彼女は若くして多くの映画に出演しており、非常に忙しい日々を送っていました。
そのため、家庭生活に十分な時間を割くことができず、結果として2人の関係に亀裂が生じたと言われています。
また、嵯峨三智子さんと岡田真澄さんが婚約破棄に至った理由は、彼女の金銭トラブルや薬物中毒などの問題が影響したとされています。
彼女は浪費癖があり、これが原因で多くの金銭問題を抱えていたとされ、さらに、睡眠薬や精神安定剤などの多量服用で副作用が表面化し、それにより作品の撮影の一時中断し入院することもあったとか。
そんな嵯峨三智子さんは、芸能界復帰と失踪を繰り返しており、その不安定な状況が2人の関係に大きな負担をかけたと考えられています。
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嵯峨三智子さんには子供はいないため、嵯峨京子さんは娘ではありませんでした。
嵯峨京子さんが嵯峨三智子さんの娘と誤解されるのは、同じ「嵯峨」の姓で、出身地も同じ京都府であり、嵯峨京子さんも同じく女優として活動していたため、混同されやすいようです。
嵯峨京子さんはタレントの井上和香さんの母親で、女優時代は主に時代劇で活躍し、35歳で結婚した後に芸能界を引退して夫と共に割烹料理店『笹よし』を営み、名物女将として親しまれました。
しかし、嵯峨京子さんは、2014年8月11日に73歳ですい臓がんで亡くなっています。
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嵯峨三智子さんの男性遍歴は、彼女の波乱万丈な人生を象徴するものでした。
嵯峨三智子さんの男性遍歴について、友田一郎さんと岡田真澄さんについては先述の通りです。
他にも嵯峨三智子さんには、当時、松竹京都の期待の若手スターだった俳優の森美樹さんとのラブロマンスが有名でした。
2人は映画の共演がきっかけで恋愛関係となりましたが、1960年12月4日、『あんみつ姫の武者修行』の撮影中に、森美樹さんは嵯峨三智子さんから譲り受けたとされる自宅で、ガス中毒死するという悲運に見舞われました。
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三十路を超えた頃に嵯峨三智子さんは、元ヤクザで俳優に転身した安藤昇さんと深い恋愛関係となりました。
2人は太平洋テレビの清水昭社の紹介で知り合い、嵯峨三智子さんが一目惚れし、映画『日本暗黒史 血の抗争』での共演を通じて、さらに親密な関係になりました。
しかし、その頃、嵯峨三智子さんは病魔に侵されており、体重が38キロにまで減少するなど非常に衰弱していました。
そんな嵯峨三智子さんを安藤昇さんは献身的に支え、生活費や治療費を自分のギャラから捻出していたそうです。
安藤昇さんの手厚い介護のお陰で、嵯峨三智子さんの体調は回復していきましたが、彼の祇園の芸妓との浮気が発覚したことで、2人は破局に至りました。
このように、嵯峨三智子さんの男性遍歴は、彼女の人生の中で多くのドラマを生み出しました。
そんな嵯峨三智子さんは、1992年8月19日に滞在先のタイ・バンコクで、くも膜下出血のため亡くなっています。
★安藤昇さんの妻や子供に関する記事はこちらをご覧ください。
いかがでしたでしょうか?
以上、嵯峨三智子さんについてご紹介いたしました。