日本共産党の政策委員長を務めている田村智子(たむら・ともこ)議員。
田村智子議員は、国会での質疑応答でも「国民の声を代表して質問してくれる」と、評判がよく話題となっています。
そんな田村智子議員の夫や子供はどんな人なのか、気になる人も多いと思います。
そこで今回の記事では、
・田村智子議員の両親
・田村智子議員の若い頃
の3つのポイントに沿って、田村智子議員の家族について、ご紹介したいと思います。
田村智子議員は夫や子供はいる?
田村智子議員の夫
出典元:田村智子ホームページ
田村智子議員は、1993年6月(当時27歳)に結婚しています。
田村智子議員の夫は、大学卒業後に就職した日本民主青年同盟で出会った男性で、一般の方のため名前は公表されていませんでした。
馴れ初めは、田村智子議員のホームページで明かされていました。
PKO法案では、徹夜国会に何度もつめかけました。このとき、一緒に国会で「夜を明かした」男性と、1993年6月に結婚。結婚式を「両親や親戚に私の生き方を伝える場にしたい」と、仲間と話し合いました。
引用元:田村智子ホームページ
共働きをしている田村智子議員ご夫妻は、晩御飯は早く帰宅した方が食事を作るというルールがあるそうですが、その9割は夫が作っていると言います。
また、田村智子議員の51歳の誕生日には、モズクの上にキュウリを細く切って51と描いたり、翌日もスパゲティにピーマンで51と描き、細切り人参と玉ねぎがそれぞれ51本入れてあったそうです。
田村智子議員の夫は、お節料理も創れるそうですので、料理上手なのでしょうね。
また、夫は田村智子議員の辛口コメンテーターだそうで、街頭演説を聞いて夫が何も言わない時は、悪くなかったんだと思えるとか。
奥さん思いでとても協力的な夫で、心強いですね。
田村智子議員の子供
出典元:毎日新聞
田村智子議員には、一男一女で2人の子供がいます。
子供の名前などは、やはり一般人の為、公表されていませんでした。
長男は1995年に生まれていますので、今年で27歳になります。
長女が生まれた年などは分かりませんでしたが、Twitterの情報から、今年23歳かと思います。
長男も料理ができるようで、
昨晩、夫も晩御飯の仕度に間に合わない時間に帰宅することがわかり、大学生の息子にメール。晩御飯は各自で、になるかと思ったら「つくります」と返信が。帰宅してビックリ!ライスコロッケ(手作りソース添え)をはじめ、私が作ったことのない料理が並んでいます。味も私の料理より美味しい…。
引用元:Facebook@田村智子
と、Facebookに投稿されていました。
父親の料理する姿をずっと見て来ているので、自然と息子も抵抗なくできるのでしょうね。
長女に関しては、中々、口が達者な様子が伺えます。
夫は出張、息子は夜勤のバイト、「それじゃ、今日の夜はガールズトークだ!」という私に娘は「ガールじゃないでしょ」と、冷たい視線。
引用元:Facebook@田村智子
と、鋭いツッコミが入っています。
また、さらに、
朝、娘からメール。乗換駅で後ろから押されてコケて、ローファーが線路に落ちた、コケたら「邪魔」と言われたのでキツく言い返してしまった、相手が逃げたので私の勝ちだと思う、
引用元:Facebook@田村智子
と、しっかりと自分の意見を言える性格のようですね。
田村智子議員は子育てについて、次のように話しています。
私も、2人の子どもの母親となり、「あと1時間早く家に帰れれば、ちゃんと子どもと向き合えるのに」と、何度も感じてきました。まして母子家庭のお母さんと子どもです。「そんなにがんばらなくても大丈夫だよ。夕方には家に帰って、子どもと一緒にいてあげて」と支えるのが、政治の役割ではないのか!
引用元:田村智子ホームページ
田村智子議員も長男出産後から仕事を続けてきて、大変な思いをされてきたのでしょうね。
それでも、子どもらがしっかりと成長できたのは、夫の協力や、家族の繋がり方が良かったのだと思います。
田村智子議員の両親は自営業
出典元:田村智子ホームページ
長野県小諸市に生まれた田村智子議員の実家は、両親・姉・弟の5人家族でした。
両親が「紙・文具卸商」を営んでいたそうで、文房具の他に、奈良県の問屋さんが書道の筆や墨を定期的に持って来ていたそうです。
田舎の卸商は山を越えて小さなお店にも配達をしており、父親の配達について行くのが楽しみだったとか。
ワンボックスカーの後ろで荷造りした段ボールの間に座っていると、冒険しているような気持になりました。配達が終わると、空の段ボールに入ってみたり、後ろ向きに座って後続車に手を振ったり、飽きることなく遊んでいました。(昔はチャイルドシートもなかったものですから・・・)
引用元:田村智子ホームページ
母親も文具卸商の仕事を手伝っていたのでしょうね。
田村智子議員が両親について、次のようにコメントしています。
父も母も、自分より他者という人だった。キリスト教徒で戦争はもちろん争い事も心から忌避していた。
— 田村智子 (@tamutomojcp) September 11, 2021
それを私も身に刻んできたから、この道に進んだのだと両親には知ってほしかった。
なぜ核兵器廃絶や平和を呼びかけることが許されないのか、これが民主主義なのかと叫びたかった。
学生時代、両親が、私の政治活動を人伝てに知ることとなり、心配いらないと話すために夜行列車で帰省した。
— 田村智子 (@tamutomojcp) September 11, 2021
核兵器廃絶や学費値上げ反対を呼びかけている、大学内での暴力を許さないのが日本共産党だと話しても分かり合えなかった。
悲しくて辛くて涙で目が腫れ上がった。両親も同じだっただろう。
田村智子議員の父親はキリスト教(プロテスタント)の信者だったそうです。
田村智子議員が共産党に入党すると決めた時、両親は猛烈に反対したと言います。
最初は隠していたが、開けっ広げに活動していたから人伝てに知れ渡り、猛烈に反対された。なぜ私の言っていることが分かってくれないのかと反発していたが、共産党で活動していると世代を超えた繋がりもでき、親の世代と話す機会もあった。その方々がどんな想いで子どもを育ててきたのかを聞くと、私も無条件で親をリスペクトしなければならないという想いになった。共産党のことで分かり合えなくとも、そのうちお互いが折り合いがつくところが生まれてくるだろうと思っていたが、選挙に立候補したとき親が応援してくれた。そこからはとても応援してくれるようになった。
引用元:選挙ドットコム
田村智子議員の父親は、2018年にお亡くなりになっています。
田村智子議員の若い頃は合唱三昧!
出典元:田村智子ホームページ
田村智子議員の若い頃は、合唱三昧だったそうです。
小学校4年生の時に合唱クラブに入部し、毎日、朝・昼・放課後と、夏休みもお盆以外は弁当持参で練習に励んでいました。
田村智子議員は、小学5年生の時には、長野県代表としてNHK合唱コンクールに出場しています。
小諸市立小諸東中学校に進学した田村智子議員は、「続けるのは当然」と合唱部に入部します。
当時の合唱部は女性ばかりでしたが、混声合唱曲「木琴」を歌いたくなり、男子をスカウトしたとか。
変声期の男子生徒を悩ませながら、辞めたいという男子部員にも手紙攻撃で引き止め、文化祭まで付き合わせたそうです。
田村智子議員は、1981年に長野県立野沢北高等学校へ進学し、高校でもすぐに音楽班(合唱クラブ)に入部し合唱に没頭。
出典元:田村智子ホームページ
一番左が田村智子議員
ヴェルディやモーツァルトのレクイエムなど本格的な合唱を経験し、文化祭では「愛の妙薬」「ノルマ」「真珠採り」などオペラを3年続けて開催したそうです。
田村智子議員は、「音楽も演劇も両方楽しめ、私のやりたいことそのものだった」と言います。
1984年に田村智子議員は、早稲田大学第一文学部に進学し、すぐに早稲田大学混声合唱団に入部します。
「毎日が歌、どこでも歌、ところかまわず歌」という合唱に没頭する日々を送っていました。
大学の合唱部では、プロの声楽家によるボイストレーニングやプロ指揮者で、本格的な合唱とはこういうものかとサークル活動にのめり込みます。
田村智子議員は、大学の講義はサークル活動の合間に出るという感じで、勉強の方は卒論の時に初めて「学んだ」と実感したと言います。
いかがでしたでしょうか?
今後も益々の活躍が期待される田村智子議員を、引き続き注目していきたいと思います。