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かつて“角界のディカプリオ”と呼ばれた元大関の把瑠都凱斗(ばると・かいと)さん。
把瑠都凱斗さんは大相撲時代には、圧倒的なフィジカルと愛嬌のある笑顔で、日本の相撲ファンを魅了しました。
そこで今回の記事では、
の3つのポイントに沿って、把瑠都凱斗さんの若き日々から現在に至るまでの軌跡をたどっていきたいと思います。
把瑠都凱斗さんは、元大関という華々しい経歴を持ちながら、現在は母国エストニアで国会議員として活躍し、任期を終えた後も実業家・文化交流の担い手として活動を続けています。
相撲、格闘技、タレント、実業家と多彩なキャリアを歩んだ彼が、なぜ政界という新たな土俵を目指すに至ったのでしょうか?
そこには、家族への想いと国家への責任感、そして第二の人生への覚悟がにじんでいました。
■家族を守りたい
把瑠都凱斗さんは相撲引退後、格闘技を経て2018年にエストニアへ帰国しており、そのきっかけの1つが「息子を自然豊かな土地で育てたい」という家族への思いでした。
そして彼は、農業と牧畜を再び自らの手で始める中で、エストニアの地方が抱える課題と真正面から向き合うことになります。
「農業の担い手が減り、食料自給率は低く、エネルギーも特定の国に頼りすぎている。子供たちの未来を考えた時、このままではいけないと思った。」
そんな思いが積み重なり、やがて政治という手段に自然と向かっていきました。
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■日本との絆を外交に活かしたい
把瑠都凱斗さんのもう一つの原動力は、「日本との絆を、より広い形で活かしたい」という国際的な視点でした。
相撲時代に培った日本語力と人脈は、単なる個人の財産にとどまらず、それを「両国の橋渡し役になる責任」と捉え、外交や文化交流に活かす決意を固めました。
■繰り上げ当選で国会入り
そして、把瑠都凱斗さんは2019年に、保守政党EKRE(エストニア保守人民党)の候補として出馬し、繰り上げ当選でついに国会議員のバッジを手にしました。
彼は、「私は完璧ではない。でもこの国の未来のために、行動する責任があると思った。」と語っています。
しかし、把瑠都凱斗さんは2023年の選挙では落選しており、現在は議員職を離れていますが、政治的な発信や講演活動は継続中とのことです。
また、彼はエストニアで複数の事業(旅行業・自動車整備・宿泊施設など)を経営しており、日本とエストニアの文化・経済交流の橋渡し役としても活動をしています。
つまり、現在の把瑠都凱斗さんは、「元力士」「元政治家」「実業家」「文化交流者の顔」として、多面的なキャリアを柔軟に展開している段階と言えるでしょう。
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2013年に度重なる膝の故障により、29歳という若さで相撲界を引退した把瑠都凱斗さんですが、その後、彼が選んだ次なる舞台は総合格闘技のRIZINでした。
把瑠都凱斗さんは引退後、エストニアで旅行業や自動車整備、宿泊施設など複数の事業を立ち上げ、実業家の道を歩み始めました、
しかし、彼の心の奥には「まだ自分にはできることがある」という、アスリートとしての情熱がくすぶっていたという。
そんなとき、リトアニアのプロポーターから格闘技参戦の打診を受け、彼は即決したそうです。
把瑠都凱斗さんは「格闘技にはずっと興味があったけど、自分からは言い出せなかった」と語っており、RIZINの舞台はまさに“封印していた闘志”を解き放つ場だったようです。
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■RIZINでの戦績と反響
2015年大晦日、RIZINでの初戦はK-1のレジェンド、ピーター・アーツと対戦し、判定3-0で勝利を収め、相撲出身の格闘家としては異例の快挙を成し遂げました。
彼はその後も連勝を重ね、デビューから3連勝という好成績を残します。
しかし、2016年の大晦日、ミルコ・クロコップ戦でKO負け喫し、以降は格闘技の表舞台から姿を消しました。
とはいえ、格闘技への挑戦は、把瑠都凱斗さんにとって“第二の人生の証明”であり、観客にも強い印象を残しました。
そして、彼は2018年にエストニアへ完全帰国し、翌2019年には国会議員に繰り上げ当選し、政治家としてのキャリアをスタートさせました。
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今や「元大関」「元総合格闘家」「元国会議員」と、肩書がどんどん増す把瑠都凱斗さんですが、そんな彼にももちろん“ただの少年”だった時期がありました。
■いじめられっ子が相撲にハマる
1984年11月にエストニアの小さな村に、2男1女の次男として生まれた把瑠都凱斗さんは、実は子供の頃はいじめられっ子で、「とにかく強くなりたい!」という思いがずっとあったそうです。
最初はバスケットボールに挑戦し、次は柔道へ進みましたが、ある日地元に日本の相撲関係者との出会いが、彼の人生を大きく変えることに。
「何で裸になるんだろう?」と戸惑いながらも、力と力のぶつかり合いに夢中になった把瑠都凱斗さんは、気が付けば地元の相撲道場「SAKURA」で、稽古に励む日々が始まっていたという。
■スカウトで日本へ
把瑠都凱斗さんの高校時代は、柔道のエストニアジュニア王者に輝くも、早くに父親を亡くし生活は決して楽ではなく、バーの警備員として働きながら、トレーニングを続けていたそうです。
そんなある日、エストニアの小さな相撲大会に日本の力士と先生が来訪し、試合後に「お前強いな。日本に来ないか?」と声をかけられました。
その2ヵ月後には航空券が届き、日本行が決定し、当時19歳だった把瑠都凱斗さんは、未知の国・日本へ旅立つことになりました。
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■ちょんまげ未満のデビュー
把瑠都凱斗さんは2004年に三保ヶ関部屋に入門し、そこから破竹のスピードで出世し、わずか12場所で新入幕を遂げ、十両では15戦全勝という快挙も達成しました。
ただ、あまりに出世が早すぎて髪が伸び切らず、大銀杏が結えないまま幕内デビューという珍事となりました。
把瑠都凱斗さんは、「心の中では日本に来た時点で大関だった」と語るほど、当時から自信と覚悟に満ちており、異国の地で言葉も文化も違う中で「勝つことしか考えなかった」というストイックさが、彼の強さの源だったのかもしれませんね。
★「ブレイキングダウン16」で対戦する赤沢幸典さんに関する記事は、こちらをご覧ください。
いかがでしたでしょうか?
今後も益々話題となりそうな把瑠都凱斗さんを、引き続き注目していきたいと思います。