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かつて、芸能界No.1のプレイボーイとして名を馳せた元タレントの羽賀研二さん。
中でも、羽賀研二さんと梅宮アンナさんとの交際は、“平成のバカップル”とまで呼ばれ芸能史に刻まれているとか。
そんな羽賀研二さんと梅宮アンナさんの馴れ初めは何だったのか気になりますよね。
そこで今回の記事では、
の3つのポイントに沿って、羽賀研二さんと梅宮アンナさんについてご紹介したいと思います。
羽賀研二さんと梅宮アンナさんの馴れ初めは、ハワイでのゴルフコンペで出会ったことに始まります。
1990年代の初め頃に、羽賀研二さんのタニマチがハワイでゴルフコンペを開催した際、梅宮アンナさんの父・梅宮辰夫さんがアンナさんを一緒に連れて行ったところ、羽賀研二さんと急接近したそうです。
しかし、当時、高校生だった梅宮アンナさんは、羽賀研二さんについて「すごい遊び人」と警戒心を抱いていたと言います。
その後、梅宮アンナさんがモデルとしてデビューし、バラエティ番組『邦子がタッチ』のデート企画で再会したのをきっかけに交際に発展したそうです。
ところが、アンナさんの父・梅宮辰夫さんは「稀代のワル」と呼んで2人の交際に猛反対し、羽賀研二さんの必死のアピールが連日報道されると“誠意大将軍”と自称し、格好の餌食となっていました。
2人は“平成のバカップル”と呼ばれワイドショーを賑わせ続け、1995年にはペアヌード写真集『アンナ 愛の日記』を出版するなど話題を集めましたが、1999年に6年間の交際を経て破局しました。
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羽賀研二さんと梅宮アンナさんの破局理由は、結婚式での司会の言葉が原因だったそうです。
羽賀研二さんと梅宮アンナさんは1999年2月に破局していますが、当時、梅宮アンナさんは女優と俳優の結婚式に招かれたハワイを訪れました。
そして、夫妻のケーキ入刀の時に、「夫婦そろっての初めての共同作業」という司会の言葉に、梅宮アンナさんはショックを受けたそうです。
というのも、梅宮アンナさんは羽賀研二さんの借金の連帯保証人になり、約8000万円もの借金の肩代わりをし、金策に走らされていました。
その甲斐あって、羽賀研二さんは沖縄ではレストラン、ブティック、美容室を経営し、悠々自適な生活を送っていました。
そんなあらゆる“共同作業”を行ってきた梅宮アンナさんは、あえて結婚後に「どんな新鮮なことがあるんだろう?」と疑問を抱き、次の瞬間、羽賀研二さんとの将来が一気に見えなくなったそうです。
そして、翌日、帰国する羽賀研二さんを空港まで車で送り届けて以降、梅宮アンナさんはずっと会わず、何も言わずに一緒に住んでいた部屋から、家具や荷物を引っ越し業者に運び出してもらったと言います。
このように羽賀研二さんと梅宮アンナさんの破局理由は、結婚式の司会の一言で恋の魔法が解けたという、あっけない結末だったとのことです。
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破局後疎遠となっていた羽賀研二さんと梅宮アンナさんですが、梅宮アンナさんが2023年にステージ3の乳がんを公表した際、羽賀研二さんがSNSを通じてエールを送り注目を集めました。
羽賀研二さんは「悲しみに中にいるはずなのに、強さすら感じる。絶対に負けないで!貴方は強い!必ず勝ちます!頑張って!」と、梅宮アンナさんに激励文を送っています。
しかし、梅宮アンナさんはこのエールに対して特に反応を示していませんが、週刊誌の取材に対して「あの件は別に何とも思ってない。連絡しようとは思ってないけど、普通のことを言ってくれてありがとうという気持ちです。」と話しており、復縁の可能性は全くないとされています。
梅宮アンナさんと別れた時、羽賀研二さんの借金は2億4000万円あったとされていましたが、宝石ビジネスで持ち前のジゴロ体質を発揮し、女性客に宝石を価格の数十倍の値段で売り付け、借金を返済してそうです。
その後、2006年10月に一般女性と結婚し2女をもうけましたが、翌2007年に未公開株をめぐる詐欺・恐喝事件を起こし実刑判決を受け、さらに、2017年1月に強制執行妨害目的財産譲渡の罪で夫婦で逮捕されました。
一方の梅宮アンナさんは2001年6月に一般男性との結婚と妊娠を発表し、翌2002年に長女が誕生しましたが、2003年2月に離婚し、さらに、2005年には中日ドラゴンズの監督・立浪和義さんとの不倫が報じられていました。
以上のように、羽賀研二さんと梅宮アンナさんの関係は過去のものであり、現在はそれぞれの道を歩んでいます。
★羽賀研二さんと元嫁・麻由さんに関する記事は、こちらをご覧ください。