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2018年6月9日に新幹線のぞみ通り魔事件を起こした小島一朗。
その小島一郎は裁判で無期懲役の判決が下された際、法廷で万歳三唱を行い、控訴することなく刑を受け入れています。
そんな小島一朗にはどんな生い立ちがあるのでしょうか?
そこで今回の記事では、
の3つのポイントに沿って、小島一朗の生い立ちついてご紹介したいと思います。
小島一朗は1995年に愛知県岡崎市にある母方の実家で生まれ、当時、両親は仕事の都合で別居していました。
3歳になると、父親と姉が暮らす愛知県一宮市に引っ越し、中学卒業まで両親と姉、父方の祖父母の6人で暮らしていました。
彼は5歳の時に発達障害(アスペルガー症候群)と診断されており、周囲とのコミュニケーションに苦しむことが多く、両親は育てにくい子供だったと語っています。
小島一朗は14歳の時に自ら病院に行こうとしたが、薬代の高さから親は連れて行かなかったそうです。
また、この頃、共働きの両親に代わりに祖母が食事を作っていましたが、姉には作り彼の分は作らないことが度々あったとされています。
小島一朗が中学2年の時、姉には新品、彼には中古の水筒が与えられたことに立腹し、包丁と金槌を両親の寝室に投げ入れる事件を起こし、両親が警察に通報しています。
小島一朗は「新品の水筒をもらったお姉ちゃんとの差別に腹が立った。」と警察官に語っています。
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小島一朗は中学2年の頃から不登校になり、自室でネットやゲームに没頭するようになり、そんな彼に困った両親は高校入学を機に、近所の自立支援施設に入所させました。
そこでは小島一朗は率先して家事を手伝い、職員の指導にも素直に応じ、通っていた定時制高校では成績優秀で、本来4年で修了のところを3年で卒業しています。
その後、職業訓練校で電気工事士など複数の資格を取得した小島一朗は、19歳の時に埼玉県にある機械修理会社へ就職しており、職場でも「理解力が高く、仕事も優秀」と高い評価を受けています。
しかし、その後、愛媛工場へ転勤となり、そこで仕事を教えてもらえないなどのイジメに遭い、1年足らずで退社しました。
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小島一朗は退社後、地元の愛知県一宮市に戻り、アパートを借りて1人暮らしを始めましたが、半年で貯金は尽きてしまいました。
そして、小島一朗の母親の提案で、唯一慕っていたという母方の祖母宅に預けられ、その祖母と養子縁組をすることになり、部屋では祖母とベッドを並べていたそうです。
しかし、そこでも自室に引きこもり、祖父に生活態度を注意されるたびに、自殺をほのめかして家出を繰り返すようになり、その度に警察の保護されることに。
そんな小島一朗は一時は精神的な不調をきたし、病院に入院していたこともあったそうです。
その後、新たな就職先を約1ヶ月で退職した小島一朗は、2017年12月に「自由になりたい」と言い残して行方不明になり、長野県での野宿生活を経て、最終的に2018年の新幹線での凶行に至りました。
現行犯逮捕された小島一朗は、「一生刑務所に入りたい」「無期懲役になりたい」と訴えており、横浜地裁は2019年12月に求刑通り、無期懲役の判決を言い渡しました。
報道によると、小島一朗は判決を聞いた際、法廷で手を挙げながら万歳三唱を行ったとのことです。
小島一朗の生い立ちは、家庭環境や社会との関りにおいて、多くの問題を抱えていたことが伺えます。
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小島一朗の家族のその後について、詳細な情報はあまり公開されていませんが、いくつかの報道によると、事件後、家族は非常に困難な状況に置かれたようです。
かつて、小島一朗と父親の関係は特に悪化しており、父親は彼に対して厳しく接し、時には手を上げることもあったようです。
その父親は、実の息子を祖母の養子として籍を移したことから、「元息子」という感覚で、息子のことを「一朗くん」と呼んでいます。
事件の背景には父親との関係悪化があるとされており、父親は「許されない、取り返しのつかないことをしてしまい、本当に申し訳なく思っています。」と謝罪の言葉を述べています。
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小島一朗の母親は姑との折り合いが悪く、夫に助けてもらえなかったため、家の外に居場所を見つけ、自立支援施設でホームレスや受刑者の支援を行い、周囲から“マザーテレサ”と呼ばれていました。
しかし、自身の息子については発達障害を抱えていたため、息子の育成に苦労していたそうです。
事件後、小島一朗の母親は「私は生きていてもいいのでしょうか」と言い、深い悲しみと後悔の念を抱えていると報じられています。
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小島一朗の姉について、詳細な情報は公に知らされていません。
ただ、事件後、小島一朗の姉は「一朗がここにいたときが一番幸せだった。」と話していたそうです。
姉もまた、弟の行動に対して複雑な感情を抱えており、家庭内での問題に対して大きな影響をうけていたと推測されます。
事件前に小島一朗と養子縁組をしていた祖母もまた、深い悲しみと困惑を抱えていると考えられます。
小島一朗の祖母は、事件後10回近く刑務所に面会に行きましたが、いずれも拒否されたそうです。
2020年4月にようやく祖母と小島一朗の面会が叶い、面会を拒否し続けた理由について小島一朗は「余計なことを話して無期懲役じゃなくなると困るから」と話したそうです。
祖母は「取り返しがつかないことで許されるはずがない」と言う一方で、「あんなに優しい子がなんで。。。」と揺れ動く感情を抱え続けています。
さらに、小島一朗の祖母は「私には一朗のことしかない。82歳(当時)だから、一朗が帰ってくるまで生きなくちゃ。人生100年だと思っているよ。」と話しています。
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小島一朗は2020年1月に刑が確定し、現在は横浜刑務所に収監され、寝たきりになっているそうです。
小島一朗は服役してから食事拒否したり暴れ回るなど、刑務所内で度々トラブルを起こしていると言います。
現在は寝たきりで、他の受刑者と隔離された保護室に入っており、着替えや入浴、トイレなどの日常生活を、刑務官の介助によって送っているそうです。
彼がメディアの取材に対して手紙で返信しており、その中には《私はもう日常生活すら困難で介護が必要です。はっきりいって寝たきりになりました。》《私はもう、あとは栄養失調で心停止、すなわち餓死するのを待つ。もういつ死んでもいいやという感じ》と綴ってあるとか。
また、手紙には《信じられないかもしれないが、私は今とても幸せです。日本の刑務所は素晴らしい。ここには希望がある。》などと記されており、刑務所での生活が期待通りであることに満足しているとのことです。
いかがでしたでしょうか?
今後も引き続き小島一朗を注目していきたいと思います。