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日本において「女性初の弁護士」「女性初の判事」「女性初の裁判所長」と称される三淵嘉子(みぶち・よしこ)さん。
三淵嘉子さんは、NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』の主人公・猪爪寅子のモデルになり、注目が集まっています。
そんな三淵嘉子さんの子供について気になる人が多いようです。
そこで今回の記事では、
の3つのポイントに沿って、三淵嘉子さんについてご紹介したいと思います。
三淵嘉子さんの子供の名前は和田芳武さんという方で、1943年1月1日生まれです。
息子・芳武さんは、2024年現在は既に亡くなっているとの情報がありました。
Web日本評論の記事からすると、和田芳武さんは2018年から2023年の間に亡くなっているようですが、詳しい時期は分かりませんでした。
2018年に出版された『家庭裁判所物語』について、三淵嘉子さんの息子・和田芳武さんは、2016年から出版後まで取材に応じていましたが、「数年前に亡くなった」と記されていました。
和田芳武さんは、三淵嘉子さんの最初の夫である和田芳夫さんの間に生まれましたが、芳夫さんは1946年に戦病死で亡くなっています。
戦時中、三淵嘉子さんは幼い芳夫さんを抱えながら、空襲で家を焼かれ逃げ惑い、さらに福島に疎開するなど苦しい生活を強いられたそうです。
終戦後に夫・芳夫さんが病死したことから、三淵嘉子さんは経済的自立を熟慮し、女性も司法官に採用されるべきと考え、1947年に裁判官採用願を提出しています。
実子である芳武さんが、三淵嘉子さんの唯一の子孫にあたりますが、芳武さんの生前の経歴など具体的な情報は分かりませんでした。
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三淵嘉子さんは2回の結婚歴があり、夫が2人います。
先述の通り、最初の夫は和田芳夫さんで、三淵嘉子さんの実家に書生として出入りしており、1941年11月5日(当時27歳)に結婚し、1943年1月に第1子の芳武さんが誕生しました。
しかし、和田芳夫さんは1944年6月に招集され、招集先の中国で発病し、1946年に帰国後、長崎の陸軍病院で戦病死しています。
その後、三淵嘉子さんは裁判官としての生活を始め、家庭裁判所の設立に尽力し、1956年(当時42歳)に裁判官の三淵乾太郎さんと再婚し、「三淵」の姓となりました。
再婚相手の三淵乾太郎さんは、初代最高裁判所長官だった三淵忠彦さんの次男になります。
三淵嘉子さんは、三淵乾太郎さんとの間には子供をもうけませんでしたが、三淵乾太郎さんには病死した前妻との間に4人の子供がおり、芳武さんを含めると5人の子供がいたことになります。
夫の三淵乾太郎さんは既に亡くなっているとのことでした。
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三淵嘉子さんの父親の名前は武藤貞雄さんといい、台湾銀行に勤務しており、母親はノブさんという方で、実家は不動産業を営む裕福な家庭の出身だそうです。
父・貞雄さんと母・ノブさんは香川県丸亀市の出身で、貞雄さんは代々丸亀藩で御即医を務める宮武家に生まれ、武藤家の養子に入っています。
武藤貞雄さんは明治19年に香川県に生まれ、公立の丸亀中学校を卒業後、一高を経て東京帝大(現・東京大学)に進学しており、非常に優秀な学歴をお持ちです。
大学卒業後に台湾銀行に入社し、シンガポール支店やニューヨーク支店の勤務を経て日本に帰国し、現在の東京都港区西麻布に住居を構えています。
三淵嘉子さんはシンガポール赴任中に生まれ、シンガポールの漢字表記に用いられる「嘉」から名付けられたとか。
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父・貞雄さんは、当時としては男女分け隔てない非常に民主的な考えを持ち、幼い嘉子さんに「何か専門的な仕事を持つために勉強しなさい。」と語っていたそうです。
そして、三淵嘉子さんは5人兄弟の長女で、4人の弟がいましたが、現在は全員他界しています。
彼らは三淵嘉子さんと同じく、武藤貞雄さんとノブ夫妻の子供で、名前は上から武藤一郎さん、輝彦さん、晟造さん、泰夫さんです。
長男の一郎さんは戦争で1944年に亡くなっており、四男の泰夫さんは林野庁の勤務を経て民間企業に勤め、退職後は森林の保護活動を行っていたことが分かっています。
四男の泰夫さんは、三淵嘉子さんについて「とにかく何でもできる人でした。頭の回転も速く言葉も達者で、元気に頼りになります。私たちを引っ張ってくれる人でした。」と話していたそうです。
いかがでしたでしょうか?
今後も益々話題となりそうな三淵嘉子さんについてお伝えいたしました。