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オリックス・バッファローズ所属の投手・宮城大弥(みやぎ・ひろや)選手。
宮城大弥選手には壮絶に貧乏な生い立ちがあるようですね。
そこで今回の記事では、
の3つのポイントに沿って、宮城大弥選手についてご紹介したいと思います。
宮城大弥選手は2001年8月25日に、人口10万人弱の沖縄県宜野湾市に生まれました。
宮城大弥さんは、両親と姉の4人で高校入学まで宜野湾市で過ごしていますが、両親は共に再婚同志で同居の姉以外に兄と姉が合わせて5人いますが、別の場所で暮らしていたそうです。
宮城大弥さんが初めて野球に触れたのは1歳の頃で、父親によると「百均のバットとボールを買い与えたところ、よほど気に入ったのか家の中でもバットを引きずって歩くようになっていた」と言います。
そんな宮城大弥さんは小学4年生の時に、少年野球チーム『志真志ドラゴンズ』に入りますが、当時から宮城家の生活は苦しく、学生が住むような家賃28000円の6畳一間のアパートに、家族4人で住んでいました。
その為、宮城大弥選手に道具を買う余裕もなく、700円で買ったビニールのおもちゃのグローブを買い与えるのが精いっぱいで、ユニフォームも買えず、継ぎ接ぎだらけのものを着ていたそうです。
そんなある日、「電子レンジでグローブが柔らかくなる」という情報を知って、やってみたらビニール製なため溶けてしまい、宮城大弥選手は大粒の涙をながしたと言います。
また、宮城家では家計が苦しくなると、毎日具の無いカレーが食卓に並んでいたとか。
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どんなに生活が苦しくても、大好きな野球に打ち込めれば幸せだった宮城大弥選手は、中学進学に合わせて地元の強豪クラブ『宜野湾ポニーズ』に入ります。
強豪のクラブチームでは遠征も多く、年間80万円かかる費用は宮城家に大きな負担となり、6畳一間から抜け出すために貯めた引っ越し資金も、野球の活動費用に消えていったとか。
時には遠征費が払えず、支払いを待ってもらうことも幾度もあったと言い、何とか工面して部費や遠征費を払うと、周囲の保護者から「宮城さん、どこから盗んできたの?」と泥棒扱いをされたそうです。
また、宮城大弥選手はいじめにも遭っており、宮城大弥選手の存在でレギュラーから外された選手から、上履きを便器の中に入れられたりしますが、それでも弱音を吐くことは無かったと言います。
その頃も、宮城大弥選手はユニフォームはボロボロで、道具は少年野球用のものをそのまま使用したり、チームメイトのお下がりをもらったりしながら、一生懸命に野球に取り組んでいたそうです。
そんな宮城大弥選手の日々の猛練習が実を結び、侍ジャパンU15代表メンバーに選ばれるまでに成長しています。
高校進学時には宮城大弥選手には、東海大菅生高校、神村学園、秀岳館高校など多くの高校から誘いが来ますが、「地元の高校から甲子園に行ってほしい」という父親の意思を汲んで、地元の興南高校へ進学しています。
興南夏と2年の夏に甲子園出場を果たしており、2019年には侍ジャパンU18代表メンバーに選ばれています。
そして、宮城大弥選手は2019年10月のドラフト会議で、オリックス・バッファローズから1位指名を受け、同年11月に契約金8000万円、年俸770万円で仮契約を結んでいます。
また、宮城大弥選手は契約金の内2000万円を出身の小中学校や野球チーム、沖縄県の自治体に寄付をしています。
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宮城大弥選手の父親は亨さん(54)で、母親は礼子さん(54)です。
父親の亨さんは、元々野球をしており九州の高校へ推薦をもらって進む予定でしたが、交通事故に遭い入学できなかったそうです。
その時の事故の影響で左肘から下に後遺症があり、定職に就くことができなかったため、福祉協議会や生活保護に頼らざるを得ない生活を送っていました。
出費のたびに宮城大弥選手は「ごめんな。いつか恩返しするから」と言い続け、両親も懸命に努力している息子を支えるために、母親の礼子さんはパートに励み、父親の亨さんも昼は当時勤めていた沖縄ツーリストの社員として、夜は興南高校の寮監として寝る間も惜しんで働いてきました。
宜野湾ポニーズの監督によると、両親は宮城大弥選手の野球に非常に熱心だといい、「お父さんは選手や周りの父兄の発言をためらわず注意するなど、かなり個性的な人でした」と話しています。
さらに、「お母さんは朗らかで大人しい印象でした。近場で試合がある時はいつも二人で観戦に来てました。しかし、遠征に関しては同行することはありませんでした。行きたくても、その余裕がなかったのでしょう」と振り返っています。
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宮城大弥選手は高校進学時やドラフト会議の際など、人生の節目に両親へ向けた手紙を書いており、そこには大好きな野球をする自分を支えた両親への感謝が綴られています。
父さんへ 自分を育ててくれてありがとう。次は倒産と約束した甲子園を目指して頑張るので応援してください。
引用元:週刊現代
母さんへ いつも文句言っているのに、ご飯や洗濯物を毎日してくれてありがとう。自分はこれから高校の寮に入るので、毎日会えなくなるけれど、母さんから習ったことを大切に、高校でも一生懸命頑張ります。
宮城大弥選手がドラフト会議で名前を呼ばれた瞬間、父・亨さんは「すごいな」と小さく呟き目に涙をため、息子を支えてくれた部員らに祝福されると、ハイタッチして「ありがとう」と笑みで応えていました。
また、母・礼子さんは「小さい時から頑張っているのを見てきたので…」と言葉を詰まらせ、「大弥が投げるのが楽しみです」と語っていました。
★宮城大弥選手の妹・弥生さんに関する記事は、こちらをご覧ください。
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宮城大弥選手は、経済的な理由から、スポーツを断念しなければならない、沖縄県内の小中高生を支援する『一般社団法人 宮城大弥基金』を設立しました。
選手個人が財団法人を設立して、スポーツ選手を支援するのは球界初のことで、活動の展開に注目が集まっているそうです。
宮城大弥選手は、プロ入りするまで遠征費の捻出に苦労した経験をもとに、父の亨さんが中心になって進め、2023年度から制度がスタートする予定だとか。
対象は、野球だけでなくスポーツ全般で、沖縄県内の小学生から高校生までの数人を、高校卒業まで支援するそうです。
この基金の設立はプロ入り前から、父・亨さんとの約束で、「大弥は色んな人の支えもあって、野球が続けることが出来、プロ野球選手になることができた。プロになれば、恩返しをしよう」と話してたと言います。
設立した基金では、経済的に苦しい子供たちが野球をできるように、返済不要の支援金を渡すそうで、家庭の経済状態によって事務局側で支援金額を決めるようです。
さらに、現在、宜野湾にスポーツ店の開店準備を進めており、体操着や運動靴など、貧しい家庭には支払いの融通を利かせる形で運営するとしています。
いかがでしたでしょうか?
今後も益々話題となりそうな宮城大弥選手を、引き続き注目していきたいと思います。