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パリ・パラリンピックの競泳日本代表の鈴木孝幸(すずき・たかゆき)さん。
その鈴木孝幸さんは先天性の四肢欠損症を抱えながらも、数々のメダルを獲得してきた実力者として、その活躍に注目が集まっています。
そんな鈴木孝幸さんには衝撃的な生い立ちがあるそうです。
そこで今回の記事では、
の3つのポイントに沿って、鈴木孝幸さんについてご紹介したいと思います。
鈴木孝幸さんは、1987年1月23日に静岡県浜松市に生まれました。
鈴木孝幸さんは先天性の四肢欠損症を持ち、右腕の肘から先がなく、左手は指が2本と短い指が1本あり、右足は根本付近から無く、左足はひざ下からありません。
その姿にショックを受けた鈴木孝幸さんの両親は育児放棄し、当時、1歳の頃から保育園の園長をしていた祖母の愛情を受けて育ちました。
そんな鈴木孝幸さんは6歳から水泳を始め、障がいを持つ人も受け入れるスイミングスクールに通っていました。
中学時代には高校進学のために一時期競技から離れ、進学した聖隷クリストファー高校では特進クラスに入り、勉強に明け暮れる日々を送っていました。
そんな中、「ストレス解消のために自分でできる水泳をまた始めてみよう」と競泳を再開し、高校に水泳部がなかったため、改めてスイミングスクールに通い始めたそうです。
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再び水泳に取り組み始めた鈴木孝幸さんは、「競泳で一番になりたい」という強い思いを抱くようになりました。
そして、鈴木孝幸さんは高校3年生だった、2004年のアテネ・パラリンピックに初めて出場し、個人ではメダル獲得はならなかったものの、200mメドレーリレーで銀メダルを獲得しました。
鈴木孝幸さんは高校卒業後は、早稲田大学教育学部に進学し、卒業後は株式会社ゴールドウィンのスピード事業部に勤務しています。
そして、2015年には社内留学制度で英国のノーザンブリア大へ留学し、学業と水泳技術の強化に励んできました。
鈴木孝幸さんは、北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京、そして、パリのパラリンピックに出場し、数々のメダルを獲得しています。
そして、2021年9月には日本人として初めてIPC(国際パラリンピック委員会)選手委員に選ばれ、同年に紫綬褒章を受章しています。
鈴木孝幸さんの生い立ちは困難に満ちていましたが、その試練を乗り越え、世界的な競泳選手として地位を築きました。
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鈴木孝幸さんの祖母の名前は小松洋さんという方で、当時、保育園の園長をしてい母方の祖母です。
祖父の小松洋さんはもともと、聖隷わかば保育園の園長を務めていましたが、鈴木孝幸さんを育てるために仕事を辞め、孫の世話に専念してきたそうです。
小松洋さんは、孫の鈴木孝幸さんを「養子」ではなく、「里子」として違う苗字のまま育ててきました。
その理由について、小松洋さんが亡くなった後も、鈴木孝幸さんが将来自立して生きていくことを目標とするためだったそうです。
そのため、祖母の小松洋さんは鈴木孝幸さんを特別扱いせず、他の健常者の子供たちと同様に接してきました。
鈴木孝幸さんは「何でもやらせてもらったのは良かった。だからこそ何にでもトライする姿勢が身についた。」と語っています。
鈴木孝幸さんが20歳になった時、里子制度の終了年齢を迎え、小松洋さんは役所に里子の終了届を出したとのことです。
晩年は穏やかなおばあちゃまという風だった小松洋さんは、2022年に89歳で亡くなっています。
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鈴木孝幸さんの両親は、鈴木孝幸さんが生まれた後育児放棄し、彼1人を祖母の小松洋さんのところに置き去りにし、その後行方不明になっています。
現在も鈴木孝幸さんの両親の居場所は分かっていないとのことです。
しかし、鈴木孝幸さんは、祖母の愛情と支援のもとで障害を乗り越え、数々の国際大会で成功を収めています。
そんな鈴木孝幸さんの生い立ちは、多くの人々に勇気と希望を与えています。
いかがでしたでしょうか?
今後も益々の活躍が期待される鈴木孝幸さんを、引き続き注目していきたいと思います。