WBCで侍ジャパンの一員として出場し、人気沸騰中のヌートバー選手。
ヌートバー選手は侍ジャパンに選ばれる前は、日本では殆ど知られていませんでした。
そんなヌートバー選手はどんな生い立ちなのでしょうか?
そこで今回の記事では、
・ヌートバーの高校時代
・ヌートバーのマイナー時代
の3つのポイントに沿って、ヌートバー選手の生い立ちについてご紹介したいと思います。
ヌートバーの生い立ちは?
幼少期から日本愛

ヌートバー選手は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス郡エルセグンドの出身で、1997年9月8日生まれの現在25歳です。
父親はオランダ系アメリカ人のチャーリーさん、母親は埼玉県東松山市出身の榎田久美子さんで、3人兄弟の末っ子として生まれました。

ヌートバー選手のミドルネームは、祖父の『榎田達司』さんにちなんで、「テイラー・タツジ」と付けられ、ゲームグローブには「Tatsuji」と刺繍されています。

ヌートバー選手の父と兄が野球をやっていた影響から、5歳から野球を始め、毎日学校が終わると裏庭で、高校時代にソフトボールをしていた母・久美子さんと一緒に、バッティングの練習をしていました。
ヌートバー選手の最初の指導者は母・久美子さんで、「こう打つんだよ」と手取り足取りフォームを教えたと言います。
最初のバッティング、裏庭で教えたのは私なんですよ。(型は)日本野球のスタイル。王さんの一本足打法、小さい時からかっこいいと思っていたもんな…
引用元:NumberWeb
しかし、何で目が出るか分からないからと、野球以外にもアメフト、バスケット、ホッケー、ライフガードなどの競技を経験したそうです。
そんなヌートバー選手は10歳の頃には、アメリカのリージョナルオールスターチームでプレーしています。

その頃の動画が公開されており、あどけない表情のヌートバー選手は「こんにちは!日本人です。私の祖国である日本を代表してプレーすることを願っています」と思いを明かしていました。
また、ヌートバー選手は幼少期に年に1度、母・久美子さんの実家がある埼玉を訪れており、帰り際にはいつも「帰りたくない」と駄々をこねてたそうです。

日本人の母親の影響で、アメリカでは珍しく玄関で靴を脱ぎ、食事は幼少期からご飯に味噌汁といった和食を食し、納豆やわさびも好んで食べてきました。
ヌートバー選手のおふくろの味は「餃子」で、毎週のように友達を呼んで餃子パーティーをしていたそうです。
★ヌートバー選手の家族に関する記事は、こちらをご覧ください。
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日本野球との縁

ヌートバー選手は、2006年の日米親善高校野球で、日本代表選手がアメリカを訪れた際、ホームステイした家庭の8歳の少年でした。
ヌートバー選手の家にホームステイをした選手は2人。
1人は、当時、早稲田実業高校の“ハンカチ王子”こと斎藤佑樹選手と共に決勝再試合を制し、夏の甲子園初優勝を果たした船橋悠(ふなばし・ゆう)選手。
もう一人は、帝京高校で強力打線の中核を担った塩沢佑太(しおざわ・ゆうた)選手でした。

アメリカのロサンゼルス空港に2人を迎えに行ったヌートバー一家は、『Welcome!船橋君 塩沢君』と書いた手作りのボードを持って出迎えたそうです。

8歳だったヌートバー選手は、最初は人見知りしてモジモジしていましたが、すぐに2人の日本人選手に懐き、空き時間には一緒に海に行ったり、夜の自主練習では一緒にバットを振っていたとか。

塩沢佑太さんは当時のヌートバー選手について、「映画『ホームアローン』に出演したマコーレー・カルキんのような、明るく元気ないたずらっ子。キャッチボールやアップにも一緒に入ってきて、皆に愛されていたというのは本当に噓偽りのない話」と語っています。
ヌートバー選手は高校日本代表の試合にも駆けつけ、日本チームのバットボーイを務めており、当時、斎藤佑樹さんや楽天の田中将大選手らとも親交を結んでいます。

そして、ヌートバー選手はペンを片手に、高校JAPANの帽子のつばに、選手全員のサインを書いてもらっており、母・久美子さんによると「あの子だけ必死に書いてもらってました」と話しています。

選手らが帰国する時にはヌートバー選手は空港で泣きじゃくり、船橋選手が別れ際に渡された手紙には「寂しい。また絶対会おうね」と書かれていたそうです。

ヌートバーの高校時代は二刀流!

ヌートバー選手は高校時代には、野球とアメフトの二刀流の選手として活躍していました。
高校生だったヌートバー選手は、野球選手としてはオールリーグMVP賞を3回受賞し、打率は2年生で.485、3年生で.435、4年生で.438を記録しています。
さらに、オールCIF(南カリフォルニアセクション)、及び全州の選抜チームにも3回選ばれる活躍をしています。
ヌートバー選手は高校2年生の時に、野球推薦で名門の南カリフォルニア大学(USC)に行くことが内定していました。
しかし、ヌートバー選手は高校3、4年生の時、アメフトのクオーターバックで大活躍し、2013年にレギュラーシーズンでチーム無敗、CIFでチーム初の準優勝に導き、2013年と2014年にリーグMVPを獲得。

“フットボーラー”として名前が知れ渡ったヌートバー選手には、同じUSCからアメフトの推薦の話が来ており、野球とアメフトの両コーチによる綱の引っ張り合いになったそうです。
どっちを選ぶか相当迷ったというヌートバー選手は、野球を選んだ理由を次のように話しています。
最終的に野球を選んだのは、私が野球一家で育ったからだと思う。自分の人生は野球に捧げられているのかな、って。野球の方がアメフトより長くやっていたし、何かがいつも自分に語りかけていたんだよ。『あなたは野球が合っている』と。
引用元:NumberWeb
フットボールが恋しいし、大好き。でも、野球が一番なんだ。母も野球の方が好きだし、そういうことにも関係しているのかもね。たしかに高校時代にフットボールで大きな怪我をした。でも、それは『野球に行った方がいいんじゃないか』って最後の決定打みたいなもの。野球ならタックルされることもないからね(笑)
アメリカでは、学生時代に複数の競技を掛け持ちすることはごく普通のことで、幼い頃から色んな競技を経験すれば、様々な筋肉が鍛えられます。

現にヌートバー選手の強肩は、高校時代にアメフトのクオーターバックとして活躍したからこそです。
野球を選んだヌートバー選手は、2018年にMLBのセントルイス・カージナルスに入団しています。
ヌートバーのマイナーで肉体労働!?

ヌートバー選手は、マイナー時代に肉体労働のアルバイトをしていました。
野球の名門の南カリフォルニア大学3年生の時に、ヌートバー選手はカージナルスから2018年メジャードラフト8巡目で指名されプロ入りを果たし、傘下のA‐級ステート・カレッジ・スパイクスでプロデビューしています。
ところが入団後2年目の2020年、コロナ禍でキャンプが突然中止され、マイナーリーグの全日程がキャンセルになり、選手として成長する最も大事な時期に野球ができなくなってしまったそうです。
そこで、ヌートバー選手はカリフォルニアの実家に戻って、打撃コーチの知り合いを呼んで、毎日トレーニングに集中するつもりでしたが、両親に「仕事をしろ」と言われます。
ヌートバー選手は、週6日、朝4時に起きて、航空宇宙企業で肉体労働に励み、仕事が終わったら打撃コーチの知り合いと一緒に打撃練習をし、その合間にオンラインで大学の授業も受けていたとか。

ヌートバー選手は、
かなりハードな夏だったけど、振り返ってみると、自分の人生や現実と向き合う経験になったのでとても良かったと思ってる。野球選手にならなかったらどんな生活をしていたのかという勉強にもなったし、野球ができることに対して、より深く感謝するきっかけにもなった。
引用元:NumberWeb
と振り返っています。
その後、ヌートバー選手は1年も経たない2021年6月22日に、正真正銘のメジャーリーガーとなり、徐々に頭角を現すと、2023年1月27日に初の日系人選手として正式に日本代表に選出されました。
★ヌートバー選手が侍ジャパンに選ばれた理由に関する記事は、こちらをご覧ください。
いかがでしたでしょうか?
今後も益々話題となりそうなヌートバー選手を、引き続き注目していきたいと思います。