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2001年6月8日、大阪教育大付属池田小学校で発生した無差別殺傷事件の犯人・宅間守(たくま・まもる)。
この事件は当時、日本の犯罪史上、稀に見る無差別大量殺人事件として、日本中に大きな衝撃を与え、今も語り継がれる悲劇で、犯人の宅間守は2004年9月に死刑が執行されました。
そこで今回の記事では、
・【池田小学校事件】宅間守の家族のその後
・【池田小学校事件】宅間守の獄中結婚の真相
の3つのポイントに沿って、宅間守の生い立ちと家族の背景に迫り、その影響が現在までどう語られているのかを深堀していきたいと思います。
【池田小学校事件】宅間守の生い立ち!

池田小学校事件の犯人・宅間守は、1963年11月23日に兵庫県伊丹市の工場街に生まれました。
宅間守の家庭環境は厳しく、父親は機械工であり、幼少期から暴力を伴う厳しい教育を受けたとされています。
また、母親との関係も良好ではなく、彼の誕生を否定する言動があったとも言われており、さらに、彼には兄がいましたが、兄は自殺していたことが報じられています。
宅間守の家庭環境は決して安定したものではなく、彼の人格形成に影響を与えた可能性があります。
【幼少期と問題行動】
宅間守は幼少期から問題行動が目立ち、例えば、三輪車で国道の中央を走って渋滞を引き起こしたり、線路に石を置いて列車妨害をするなど、危険な行為を繰り返していたとか。
また、動物虐待の傾向もあり、犬や猫を新聞紙に包んで火をつけるなどの行為をしていたとも言われています。
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【学業と自衛隊への憧れ】

出典元:集英社オンライン
小学生時代、宅間守は大阪教育大付属池田中学校の存在を知り、進学を希望しましたが、家庭の経済状況や学力の問題から断念しました。
その後、兵庫県尼崎市内の工業高校に入学しましたが、問題行動が続き2年で中退しています。
高校中退後、宅間守は数ヶ月のアルバイトを経て、18歳の時に航空自衛隊に入隊しましたが、視力の問題で憧れていたパイロットになれず、航空機整備の仕事に就きましたが、1年強で除隊となり、その後は十数社にわたる転職を繰り返す生活に入りました。
【犯罪歴と精神科入院】
宅間守は除隊後、精神的に荒れ、家族の暴力を振るうようになり、また、1984年には女性に対する強姦事件を起こし、逮捕されることを恐れて精神科病院に入院しました。
この入院は警察の追及を逃れるためのものでしたが、閉鎖病棟へ入れられた宅間守は、入院生活に不満を感じ、5階から飛び降りるという行動をとり、重傷を負いました。
その後、宅間守は「世間への復讐心」を強め、通り魔的な傷害事件を繰り返すようになり、1986年には強姦事件で懲役3年の実刑判決を受け、服役しました。
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【社会への憎悪と事件への道】

池田小学校事件の犯人・宅間守の犯行動機は、社会への憎悪や個人的な不満が大きく関係していたされています。
彼は自身の人生が上手くいかないことに強い不満を抱いており、特に「高学歴・高収入のエリート層」への嫉妬や憎しみを持っていたとされています。
また、宅間守の供述によると、元妻への恨みも動機の1つだったようで、彼は「大量に人を殺せば、元妻が自分と知り合ったことを後悔するだろう」と考え、無差別殺人を決意したとされています。
彼は4回の結婚と離婚を繰り返しており、特に3番目の元妻との別居後、3年半にわたり復縁を望みながらも、賠償金を請求し、最終的には殺意を抱くようになったと報じられています。
事件の16日前には殺害を決意し、具体的な準備を進めていたとも言われていますが、その目的は次第に小学校での無差別殺人へと変わっていったようです。
さらに、「自分の苦しみを多くの人に分からせてやろう」とも語っており、社会全体に対する復讐心があったことがうかがえます。
彼の人生は転職を繰り返し、社会に適応できないまま、最終的に池田小学校事件へと至りました。
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【池田小学校事件】宅間守の家族のその後は!?

宅間守の家族構成は、父親・母親・兄の4人家族でした。
彼の家庭環境は非常に厳しく、特に父親の暴力が日常的だったとされ、母親も宅間守に対して冷淡で、彼の誕生を否定するような言動をしていたとも報じられています。
具体的には、彼が幼少期に「自分はなぜ生まれてきたのか?」と尋ねた際、母親は「あんたなんか生まなきゃ良かった」と答えたという証言があります。
また、彼が大阪教育大付属池田中学校への進学を希望した際にも、「そんなの通るはずがない。受けるだけ無駄」と、否定的な態度を示したとされています。
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【家族のその後】

出典元:集英社オンライン
事件後、宅間守の家族は世間から厳しい視線にさらされました。
特に父親は事件後も生家に住み続けましたが、2020年に肺がんで亡くなったとされており、彼は事件後も自責の念を抱えながら生活していたとされ、家の中は荒れ果てていたそうです。
宅間守の生家はその後取り壊され、現在は更地になっています。
母親については、事件後に精神的に病み、精神病院に入院したと報じられ、彼女も事件の影響で世間から強い批判を受け、家族としての苦しみを抱えながら生活していたようです。
また、宅間守より7歳年上兄に関しては、事件以前の1999年3月に、頸動脈を出刃包丁で切って自殺していたことが報じられています。
このように、宅間守の家族は事件後、世間からの厳しい視線にさらされながら、それぞれの人生を歩んでいったようです。
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【池田小学校事件】宅間守の獄中結婚の真相!

宅間守は、死刑確定後の2003年12月に、支援者の30代の女性と獄中結婚しました。
この女性は身長は155cmほどの細身で、髪の毛はショートカット、切れ長の目をした和風の容貌の、目鼻立ちがスッキリとした理知的な美人だという。
彼女は和歌山県白浜町の出身で、地元の高校を卒業した後、大阪や関東でテレビの映像制作に携わり、CS放送番組を作る孫受けの会社を大阪市内で設立しています。
この女性は「死刑廃止論者」で、宅間守に対して励ましの手紙を送り続け、精神的な支えになりたいと考えていたようで、彼女は弁護士を通じて結婚の意思を伝え、婚姻届を提出しました。
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【結婚の背景】
宅間守は裁判中も反省の態度を見せず、挑発的な発言を繰り返していましたが、死刑確定後は「執行されるまでは人間らしくありたい」と語り、支援者との結婚を受け入れました。
結婚後、彼女は宅間守と面会できる立場になりましたが、婚姻生活は長くは続かず、宅間守は死刑執行直前に離婚しており、結婚生活はわずか9ヵ月間でした。
離婚理由については詳細な公式記録はありませんが、いくつかの報道によると、彼の態度や発言が原因だった可能性が指摘されています。
宅間守は結婚後も挑発的な言動を続けており、妻に対しても支配的な態度を取っていたとされています。
また、彼は死刑執行を望んでいたため、結婚生活を長く続ける意思がなかったとも考えられます。
そんな宅間守の死刑執行前の最後の言葉は「『ありがとう』と、僕が言っていたと彼女に伝えて下さい。」だったとされ、この「彼女」とは獄中結婚した妻のことを指していると考えられています。
宅間守は最後まで、事件の被害者や遺族に対する謝罪の言葉を述べることなく、反省の態度を見せることもありませんでした。
彼の“最後の言葉”は、彼の人生の中で唯一心を許した相手へのメッセージだったのかも知れません。
宅間守の最後の妻は、遺体として出所した彼の「お別れ会」を、大阪のあるキリスト教系施設で行い、参列者が帰った後、彼女は1人で棺桶に入った宅間守と一夜を過ごしたという。
その後も彼女は自宅マンションに一度も戻らず、遺体に付きっきりになり、火葬して骨を拾うまで夫の亡骸と一緒の時間を過ごしたとのことです。