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WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で侍ジャパンに選ばれている、千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希(ささき・ろうき)選手。
佐々木朗希選手は、2022年に日本プロ野球史上最年少の完全試合を達成しており、WBCでもその活躍が期待されています。
そんな佐々木朗希選手はどんな幼少期を過ごしてきたのでしょうか?
そこで今回の記事では、
・佐々木朗希の父親の死因
・佐々木朗希の甲子園
の3つのポイントに沿って、佐々木朗希選手の幼少期についてご紹介したいと思います。
佐々木朗希の幼少期が壮絶!
小学時代に震災
佐々木朗希選手は、岩手県陸前高田市高田町の出身で、2001年11月3日生まれの現在21歳です。
佐々木朗希選手は、3人兄弟の次男として生まれ、幼少期はいたずらっ子で、家の外をずっと駆け回る活発な少年でした。
陸前高田市立高田小学校の3年生の時に、地元の『高田野球スポーツ少年団』に所属していた兄・琉希さんの影響を受け、同じスポーツ少年団に所属し野球を始めています。
佐々木朗希選手は、野球を始めて以来、兄や父親と一緒に野球に取り組んできましたが、4年生を目の前にした2011年3月11日に東日本大震災が発生(詳細は後述します)。
実家を流されてしまった佐々木朗希選手は、大船渡市猪川小学校へ転校し、地元の軟式野球少年野球団『猪川野球クラブ』に入部し野球を続けています。
当時、猪川小学校の校庭は仮設住宅が建っており、野球をする十分なスペースが確保できず、保護者や指導者、支援者などの協力を得て、近くのグラウンドへの送迎や、練習試合の招待を受けて活動していたそうです。
佐々木朗希選手は、猪川小学校6年生の時、ZOZOマリンで行われた『リアスリーグ』第1回大会に出場しており、チームは決勝まで勝ち進み、初代優勝を飾っています。
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中学時代は疲労骨折
小学校卒業後、佐々木朗希選手は大船渡市立第一中学校に入学し、軟式野球部に入部しています。
その当時もまだ、学校のグラウンドには仮設住宅が立ち並び、野球部の練習は脇にある空き地のような場所でしていたそうです。
佐々木朗希選手は当時から研究熱心で、理想のフォームを探し、情報を集めてグラウンドで実践していたとか。
2年生秋の新人戦からエースナンバーを背負った佐々木朗希選手ですが、股関節のケガなどで思うように投げられない時期が続き、3年生なる直前の2016年春に腰の疲労骨折をしています。
腰の痛みを訴えた当初、病院からは「体が硬いだけ」と診断されていましたが、釈然としなかった指導者が花巻東高校の佐々木洋監督に相談して、青森県八戸市の病院を紹介してもらって、そこで疲労骨折と分かったそうです。
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そのため、中学3年生の半年間はリハビリのため、中学総体への出場は叶いませんでした。
佐々木朗希選手は、リハビリが明けた秋の「オール気仙沼」で、『第16回中学生KWB野球選手権』に出場し、チームにとって9年ぶりの優勝を果たしています。
その後も、東北大会で優勝し、県の選抜にも選ばれ、『第11回U15全国KWB野球秋季大会』へ出場し、チームは初戦敗退したものの、佐々木朗希選手は3回3被安打無失点と好投したことから、優秀選手賞を受賞しています。
またこの大会で、佐々木朗希選手は、当時の自己最速となる球速140キロをマークしています。
そして、佐々木朗希選手は高校進学時、県内外の高校から声がかかりましたが、地元から甲子園を目指したからと岩手県立大船渡高等学校へ進学しています。
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佐々木朗希の父親の死因は震災!?
佐々木朗希選手の父親・功太さん(享年37歳)の死因は、東日本大震災の津波で流されたために亡くなっています。
震災による津波で自宅は全壊し、、父・功太さんだけでなく祖父母も失ってしまいました。
東日本大震災があった当時、佐々木朗希選手は小学校3年生で、その瞬間は陸前高田市立高田小学校にいました。
津波は校庭まで押し寄せ、佐々木朗希選手はみんなで必死に高台まで逃げたそうです。
佐々木朗希選手の母親の陽子さんは、隣町の大船渡で仕事をしていたため無事でしたが、浸水で立ち往生を余儀なくされます。
翌朝5時半には車で陸前高田へ出発しましたが、普段は30分の道のりが3時間近くかかったそうです。
避難所で兄弟3人で一夜を過ごし、翌朝には母・陽子さんと再会できました。
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佐々木朗希選手は佐々木朗希選手は、
避難所で水もなければ、お風呂にも入れない日々を過ごしました。その時に普通のことが普通ではないということを知りました。ご飯を食べること、お風呂に入ること、野球をすること。当たり前に思えたことの全てが当たり前でないことを痛感しました。今までの普通だった毎日がいかに幸せなことだったのかを知りました。
引用元:産経新聞
と当時を振り返っています。
老人ホームに作られた避難所での生活を余儀なくされましたが、小学4年生の時に母方の家族がいる岩手県大船渡市に引っ越しをしています。
そんな環境の中で佐々木朗希選手の支えとなっていたのが野球で、避難所でもボールを見つけてキャッチボールをし、グローブも人から借りて野球に没頭していたと言います。
震災から5日目の3月16日、大船渡の親族の家の電話が鳴り、「見つかりました」と告げられます。
その時、佐々木朗希選手が「見つかった!?」と目を見開いたそうですが、その言葉の真意は9歳だった佐々木朗希選手には理解できなかったとか。
その後、祖母も見つかりましたが、祖父だけはまだ行方不明のままだそうです。
父親の功太さんが他界し、母子家庭となった佐々木家は、兄の琉希さんが父親代わりに2人の弟の面倒を見てくれていたとか。
佐々木朗希選手は学生時代には、父親たちの写真に「行ってきます」と声をかけて学校に行ってたそうです。
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佐々木朗希は甲子園出てない?
佐々木朗希選手は、大船渡高校時代には甲子園出場はできませんでした。
大船渡高校に進学した佐々木朗希選手は野球部に所属し、その存在は高校野球界の誰しもが知る存在となり、「令和の怪物」とまで呼ばれていました。
佐々木朗希選手は、高校2年生の秋の大会でエースナンバーを背負い、県大会1回戦で高校2年生史上最速タイ球速157キロを計測。
高校3年生の4月の高校日本代表候補の合宿で、非公式ながら中日ドラゴンズのスカウトのスピードガンで163キロを記録し、このことがNHKの全国ニュースで流され、一躍注目されることになります。
春の地区大会・県大会は全国の野球ファンから注目を集め、大船渡高校の試合が行われる球場は内野スタンドがほぼ満席状態となり、臨時駐車場の手配や外野スタンドの開放など異例の措置が取られるほどでした。
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佐々木朗希選手が全国から注目を集めた3年生の夏の県大会では、エース兼4番打者を務め、準決勝で完封勝利を収め、中学時代から仲間と一緒に夢見た甲子園出場まで、あと1勝までこぎつけます。
しかし、佐々木朗希選手は、7月30日に行われた対花巻東高校との決勝戦で、最後までマウンドに立つことはできず、チームは2-12で敗れています。
佐々木朗希選手の決勝での登板回避を決断したのは国保陽平監督で、試合終了直後報道陣に対して「投げられる状態ではあったかも知れないが、私が判断した。理由は故障を防ぐためです」と説明。
報道陣からの取材に応じた佐々木朗希選手は、うつむき加減で「監督の判断なのでしょうがないです。高校野球をやっていたら、試合に出たい。投げたい気持ちはありました」と語り、不完全燃焼で最後の夏が終わっています。
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この件に関して大船渡高校には苦情の電話が殺到し、野球関係者や評論家の間でも議論となり、メディアでも取り上げられるほど社会問題となっていました。
とりわけ地元では、監督の責任を問う声が噴出したとか。
国保監督は大会前に、佐々木朗希選手の詳細なメディカルチェックを行っていました。
佐々木朗希選手を診たスポーツドクターによると、当時の佐々木朗希選手には骨の成長を示す「骨端線」が残っており、まだ骨の成長過程だったとか。
その状態で過度の投球を行うと、骨の変形や靱帯などの損傷に結び付く可能性があるそうです。
そのスポーツドクターは「すごい素材だけに慎重に育成すべき」とアドバイスをしており、他の専門家の意見も聞いて、国保監督は佐々木朗希選手の起用に慎重になっていとか。
試合前に国保監督が登板回避を伝えると、佐々木朗希選手は笑顔で「分かりました」と言ったそうです。
★佐々木朗希選手の家族に関する記事は、こちらをご覧ください。
いかがでしたでしょうか?
今後も益々話題となりそうな佐々木朗希選手を、引き続き注目していきたいと思います。